今注目の時計師、カリ・ヴティライネン氏
優れた時計師は、ほぼ例外なく過去の名品の修復に携わった経歴を持つ。彼らはそこで、往年の機構に向き合い、過去の時計師と“対話”し、自身のウォッチメイキングに反映させる。高い審美眼を持ったハイエンドウォッチの愛好家の注目を、今もっとも集めている時計師、カリ・ヴティライネン氏もそんな一人である。
1962年フィンランド出身。母国の時計学校やスイスの名門時計学校WOSTEPで学んだ後の90年、修復の名手にして、96年に自身のブランドを立ち上げるミシェル・パルミジャーニ氏の工房に入り、レストアやユニークピースの製作に9年間携わる。2002年に念願の自身のアトリエを設立、「ヴティライネン」ブランドをスタートさせる。
06年には独立時計師アカデミーのメンバーに迎えられ、権威あるジュネーブ・ウォッチメイキング・グランプリでは07年にメンズ・ウォッチ部門グランプリに輝いたのを皮切りに、これまで8回部門賞を受賞し、今や常連の貫禄だ。
一体ヴティライネン氏の何がすごいのか? 修復で得た知見に基づく、「仕上げ」をまず挙げたい。文字盤をご覧いただくと、部位ごとに「ソレイユ(太陽光)」「エカイユ・ド・ポワソン(魚の鱗)」「ヴァーグ(波)」などの、異なるパターンのギヨシェが施されているのが分かる。彼のアトリアでは、約1世紀前に使われていたローズエンジン旋盤を調達・修復し、当時と同じ手作業で、0.8mmの厚さのシルバー文字盤に0.2mmの深さの立体感あふれる伝統的なギヨシェを施している。
25年以上のキャリアを持つベテラン技術者が、ダイヤル1枚を仕上げるのに4日を要するという。
ムーブメントのコンポーネンツの「仕上げ」も秀逸。面取りには、砥石、目の粗さの異なる紙やすり、さらに研磨剤を付けたウッドスティックによる研磨など、何工程も要する。サーキュラーグレインやスパイラルグレインなどの幾何学模様の装飾仕上げ、完璧な鏡面仕上げのブラックポリッシュなども、コンポーネンツの存在感を際立たせている。
11年に発表した自社製キャリバー「Vingt-8(ヴァントゥイット)」にも、修復から得た知見が生きている。アブラアン・ルイ・ブレゲが考案したナチュラル脱進機を改良・進化させた独自のダイレクトインパルス脱進機を採用。アンクルを持たず、2枚のガンギ車から13.6mm径の大型のテンプに直接動力を伝えるもので、一般的なスイスレバー脱進機に比べ、摩擦が少なく動力伝達効率も高いが、繊細な製作過程を経るため、ヴティライネン氏の工房以外では作れない。
現在の生産体制は、中軸となるアトリエ・ヴティライネンに約30名、文字盤メーカーのコンブレマインに約20名、ケースメーカーのヴティライネン&カッティンに7名が在籍し、年間総生産本数は60〜80本。日本ではタカシマヤ ウオッチメゾン 東京・日本橋のみの取り扱いだが、生産数が限られるため、店頭で出会うことは難しい。
コンブレマインでは、他社からの文字盤製作の依頼にも応えているが、これらの製作数はごく限られている。アーミン・シュトロームの「グラヴィティ・イークォル・フォース」というモデルの場合、コンブレマイン製ダイヤルを採用すると、通常モデルより100万円ほど価格がアップする。その文字盤の価値がうかがえよう。
またこの6月に、ゼニスが天文台クロノメーターコンクール用に20世紀半ばに製作し、1950年から5年連続優勝の快挙を成し遂げた伝説的なキャリバー135-Oを修復し、ケースに収め、オークションハウスのフィリップスで限定10本が販売された。この愛好家注目のプロジェクトのレストアと装飾仕上げを担当したのもヴティライネン氏だった。
ちなみに販売価格は13万2900スイスフラン、約1800万円だった。ヴティライネン氏は、コンプリケーションを作り上げる技量を持ちながら、これ見よがしな複雑機構に傾くことなく、シンプルさの中に際立つ「仕上げ」に注力する。伝統的で手間のかかる「仕上げ」は、複雑機構に優まさるとも劣らぬ労力を要する尊いものだという信念を感じさせる。
誤解を恐れず筆者のフィールドに引き寄せてギターの奏法に例えるなら、速弾きやライトハンドなどのド派手な超絶技巧に走るのではなく、レイドバックしたブルースの心地良いグルーヴを追求するスタンスにも通じる。
そんなヴティライネン氏は、昨年デンマークをルーツとする玄人好みの歴史あるブランド、ウルバン・ヤーゲンセンを買収し、CEOに就いた。フィンランドとデンマーク、北欧に根ざしたウォッチメイキングが、今後どんな展開を見せるのか、目が離せない。
まつあみ靖(まつあみ・やすし)
1963年、島根県生まれ。87年、集英社入社。週刊プレイボーイ、PLAYBOY日本版編集部を経て、92年よりフリーに。時計、ファッション、音楽、インタビューなどの記事に携わる一方、音楽活動も展開中。著書に『ウォッチコンシェルジュ・メゾンガイド』『再会のハワイ』(ともに小学館)ほか。
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